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2011年9月17日 (土)

久留米梅林寺関係僧逸話

禅文化研究所の禅門逸話集成より 抜粋・・・・・・・

ほとんど本よりの 抜粋ですが、少々 私の 手直しが 入っていますので 御了承のこと。。。。。

羅山元磨 らざんげんま

火のついた線香を握って 睡魔を払う 
遠江国(静岡県のあたり)生まれた 羅山は 幼い時に 生国の広寿寺において出家した。
幼少の頃から悟りをひらくという 一大事のあることを知った羅山は、刻苦勉励、昼夜も眠らず修禅に励んだ。睡魔が襲えば 線香を焚いて それを握り 自らを戒めたという。。。。

 根っからの まじめな人であった。。。さて、 元磨の 生涯を 書いてみます。

羅山は修行のため 西遊して 岡山の曹源寺の太元に参じた。
いくばくもせず 太元は 遷化したが その後は 儀山に従って 参究していたが 本師よりしばしば 帰郷するように 催促された。しかし それを逃れるように 遠く九州肥後にに入り、初めて 熊本の見性寺の蘇山和尚に参じた。
その時期 蘇山和尚は 見性寺に入寺して日も浅く 雲水を指導するのにも 熱が入り 厳竣なるものであった。 羅山は蘇山の 厳しい鉗鎚のもとで 懸命にに参究に励み ついにその禅法を極めた。羅山がはじめて 見性寺に来たときは 二 ・ 三人の雲水(修行僧)しかいなかったが 蘇山和尚の禅風があがるごとに 雲水が群集し 見性寺は たちまち 一大叢林となった。
集まった雲水たちは 羅山を蘇山門下の第一とした。
こうして羅山は 蘇山和尚のもとで 修禅をつとめていたのでしたが 郷里の本師が 羅山が見性寺にいることを知り、しきりに帰郷するように何度も 求めていた。
羅山も本師の願いを 断り切れず とうとう帰郷をおもいたち 遠江に向かったが、途中 筑後の梅林寺の悦堂和尚の遷化にあい、 梅林寺の後住として あとを嗣いでくれるように 懇願されたが、嗣住という(雲水を育てる任)重責を 寄託された 羅山は 辞退もできず 梅林寺の住職となる。

安政六年三月 羅山は 詔勅により 妙心寺に住職する。(この頃は管長とは言わなかった。明治になり管長職ができたようだ。)
晋山式には 勅使も出席し 集まったものたちは 羅山に禅法発展の望みを託した。
妙心寺住職となり 羅山の徳華は ますます輝いていたが 梅林寺の衆僧と苦楽を共にすることは 一日たりともなく 一日たりとも 安逸に日を送ることは なかったという。
羅山の 人となりは 瑞厳にして、ひとり座禅を組むときにも 衆と共にあるが如く 厳然たる態度であった。その容貌は魁偉、眼光は近寄りがたいまでも鋭く光り輝いていた。
しかし、口から出る言葉には 春風のような ぬくもりがあり、その声を聞く 学徒は 深く心酔し 辞して去るにしのびなかったという。
慶応三年二月に 病に倒れた 羅山は 門人の感淚の中でついに遷化した。
世寿は 五十三歳(今の私と 同じ歳である)
筑後の有馬侯は深く 羅山に帰依し、羅山が病に倒れたことを知ると 侍医をつかわして懸念にその命を 救わんと つとめたいうことであった。

追記であるが
蘇山和尚 羅山和尚は 上記の通りだが この二人は漢詩にもかなりたけていたという。
安国寺に 藍山和尚がいた。。。。。。だれが言ったかは しらないが 漢詩の三山と うたわれていた。。。。藍山和尚も 漢詩が好きで どこかの六局屏風に 綿密に漢詩が書かれている。。。きっと 安国寺の 藍山和尚が 勝手に 言ってるだけだと 私は思うが、時代も違うし 漢詩が 得手だった ことは 疑いなきことのようだ。。。。失礼しました。

私も まねしたいが 生まれもった 器が 違う。。。。。。