法話のような・・・・ Feed

2012年4月13日 (金)

坊さんの三種の神器

昔から 三種の神器がある。。。

天照大御神から伝えられる 鏡 剣 玉・・・・・・・

坊さんの三種の神器とは・・・

なんていって 私が いってるだけだが・・・・・・

坊さんが 尊敬される 三つの要素がある。。。。

それは 字が上手 お経が上手 話が上手

この三つがあれば 檀家の人は 敬意を表する。。。。。。あの お坊さんは すばらしいと・・・・・・

私は この三つは クリアーしているのだが、余計なものが まだある。。。。。

坊さんにとっては かなりのマイナスだ。。。。

それは 酒好き 女好き 気が短い・・・・・まっ 軽く この三つなら さほどのことはないし 可愛くもあるが・・・・・・強いといけない

酒好きも 過ぎると 酒乱となり 酔狂を回す・・・・・・・・・飲酒戒にかなり触れて 坊さんにあるまじき姿

女好きは 過ぎると ただの変態・スケベである・・・・・・邪淫戒の重い罪  気持ち悪くて相手にされない。

気が短いのも 過ぎると 暴力だ・・・・・・・・暴力的な言葉となり 人の心を壊してしまう 殺生戒に属する。

この3つがあれば プラス どころか 多大のマイナスで 坊さんにあるまじき 人格者だ。。。。ある意味 人格障害者になる。

なんでも ほどほどがいいのだが、なかなか難しい・・・・酒も 己を崩さず軽く陽気になるなら愛されるし、女性を花に見立てて綺麗だな~~と褒めるくらいなら 逆に好かれる。。。。時には 怒ることも必要だが 己を失ってしまえば ただの馬鹿だ。

私は 中くらいに 後の3つがあるように思えるので、坊さんの三種の神器も プラス マイナスの ゼロ となる。。。。sad

が、近頃 なんか違う。。。。。。。歳のせいか・・・・

お酒もあまり飲めない。。。。女性からも相手にされない。。。。。怒る 元気も少ない。。。。。

良いのか 悪いのか・・・・まっ 結果的には 良いのかもしれないhappy01

坊さんといえども 人間である。。。。。。喜怒哀楽はある。。。。これを超越してしまえば 仏となり ただの 路傍の石だ。

要するに 感情がなくなってしまい、生きる屍と 同様だと思う。

住職となって 色々考えた。。。。ただ まじめだけが いいのか・・・・・しかし、何も出来ないし 興隆はあり得ない。

皆と共に 苦楽を思い 共に歌い 共に笑い 共に苦するのが いいのか・・・・・生臭坊主と言われる。

う~~~ん  いまだに 解明できない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ふと思う 馬鹿な 坊さんの 夕暮れの たわむれなり・・・・・・・気にしないでください。

今日の ところで そんな話を してきたのでしたが・・・・・・・・京都に行き 各本山参りをして 話をして頂く 和尚様・・・・・色々だ。

ただ、頭に残る印象のある 話をして頂ける 人は 少ないように思える。。。。。。聞いているときは わかるが 3日過ぎると 何の話だったか 忘れてしまう。。。。

ガ~~~~ん と 心に 残る 話を して頂きたい。。。。まっ 今回 二人程 話が 心に残ってはいる・・・・・

相手の話を自分のものにするには 自分が相手の話を理解する必要があるし、それだけでは まだ 自分の者にはなってない。

その話を 人に 聞かせて 聞かせた相手を理解させることだ。。。。。

そのとき はじめて 自分が 相手の話を 奪ったことになり 自分のものとなる・・・め

大いばりで 話せばいいのだ。。。。。。。

本で読んだ 知識を・・・ 聞いた知識を いくら話しても 相手を理解させることは 本当に 難しいと思う。

暗い廊下で 手燭に火をともし 足元を照らし歩くことは出来ても、回りは照らせはしないし アクシデントで手燭を落とし 消えてしまえば 真っ暗闇で 自分も歩けなくなる ようなものである。。。。。。

しかし、灯りそのものが 自分であるなら(自分のものになっているなら) 皆が 自分を明かりとなし 歩いてついてくることとなる。。。。。。。。

偉そうに 私が のべるまでもないが・・・・・・・若輩の諸君 私の 二の舞にならないように!!!ご用心smile

2011年9月18日 (日)

久留米梅林寺関係僧逸話

禅文化研究所の禅門逸話集成より 抜粋・・・・・・・

ほとんど本よりの 抜粋ですが、少々 私の 手直しが 入っていますので 御了承のこと。。。。。

中原鄧洲(なかはらとうじゅう) 南天棒
 
江戸 明治 大正を生きた。。。 肥前の唐津の生まれ
諸方講師に歴参してのち 梅林寺の羅山の印可を得た。。。。
徳山の大成寺 松島の瑞巌寺 西宮の海清寺に住した 僧である。

“ 道い得るも南天棒 道い得ざるも南天棒 ”
有名な 言葉であるが なぜ 南天棒 なのか の由来

禅門逸話集成に 書かれているのを そのまま 書きます。南天棒の言葉で・・・・・

南天棒は俺がつけたのではない、人がつけたのだ。
二十九の年に、羅山より 印可を得たが、羅山は俺に 「病は一師一友のところにあり」という 虚堂の十病を説いて しきりに遍参をすすめられた。
これは先師の大恩で、もし俺が そのまま羅山のところ ばかりにいたら とても今日の南天棒はないのだ。
さて、羅山の命令により 遍参に出かけるとき 法戦は真剣勝負でなければ役に立たぬから、武具として かなり太い南天棒をこしらえた。阿蘇の山中からとってきた。
長さ六尺五寸(約二メートルくらい)太さがひとにぎりより余った。
これでぶったたけば たいていのやつは へこたれる。
深彫に【臨機不譲師】と彫りつけた。
この棒を下げて飄然と遍参にでかけた。趙州流で、我に勝れるもの 七歳の童子でも師とし、我より劣れしもの 百歳の老翁でも この南天棒で ぶっくらわす という意気じゃ。

日本国中のあらゆる師家(道場の老師)をかたっぱしから ぶったたいた。気に入らぬやつがあると 喚鐘を取り上げた。
しかし、これはいたずらに我慢勝他の念にかられたのではない。
真の大法の衰えたるを慨嘆し、相似の禅を打破するという報恩底よりほかならない。
良い師家と思うと 一夏(いちげ・・半年)以上掛錫した。庭詰めは なんぼ やったかわからん。始終南天棒を前に置いたものだ。そこで南天棒の名が高くなって、世間で俺の本名をいうものがなくなった、南天棒と呼ぶようになった。どこへ行っても南天棒と 呼ぶから、俺の方でも 南天棒と自称するようになった。。

まだまだ 逸話は続くのだが 書き込むのが 大変だから、あとは 禅門逸話集成を購入いただいて 自分で残りは読んでください。
 ちなみに 本の宣伝をしているつもりはありません。読んでると楽しいし 皆にも知ってほしいの 気持ちです。悪しからず。

梅林寺での 本にはない逸話が あるので ご紹介。

公案(禅問答の質問)に
 “ 千尺井中に座する底の人 寸縄を借らずして 如何がいだしえてんや ”
というのがある。。。私が四年目の頃に いただいた公案だ。
なかなかの難問で一ヶ月もかかって やっと 解いたのだが、その時に 老師より聞かされた。  南天棒は この公案を解くために 典座(台所)の井戸の上に座り、それでもわからないから 井戸の中に 飛び込んだと・・・・・・・今も その井戸は あります。

うひょ~~~~~っ  すごい人もいたもんだ。。。。私は 泳げないし ましてや 暗い井戸の中なんかに飛び込むなんて・・・途中で頭を打たないだろうかとか、有毒ガスがたまってないだろうか、毒蛇が居るかもしれないなどと・・・・・考えただけで 恐ろしい。 くわばらくわばら・・・・・・・

2011年9月17日 (土)

久留米梅林寺関係僧逸話

禅文化研究所の禅門逸話集成より 抜粋・・・・・・・

ほとんど本よりの 抜粋ですが、少々 私の 手直しが 入っていますので 御了承のこと。。。。。

羅山元磨 らざんげんま

火のついた線香を握って 睡魔を払う 
遠江国(静岡県のあたり)生まれた 羅山は 幼い時に 生国の広寿寺において出家した。
幼少の頃から悟りをひらくという 一大事のあることを知った羅山は、刻苦勉励、昼夜も眠らず修禅に励んだ。睡魔が襲えば 線香を焚いて それを握り 自らを戒めたという。。。。

 根っからの まじめな人であった。。。さて、 元磨の 生涯を 書いてみます。

羅山は修行のため 西遊して 岡山の曹源寺の太元に参じた。
いくばくもせず 太元は 遷化したが その後は 儀山に従って 参究していたが 本師よりしばしば 帰郷するように 催促された。しかし それを逃れるように 遠く九州肥後にに入り、初めて 熊本の見性寺の蘇山和尚に参じた。
その時期 蘇山和尚は 見性寺に入寺して日も浅く 雲水を指導するのにも 熱が入り 厳竣なるものであった。 羅山は蘇山の 厳しい鉗鎚のもとで 懸命にに参究に励み ついにその禅法を極めた。羅山がはじめて 見性寺に来たときは 二 ・ 三人の雲水(修行僧)しかいなかったが 蘇山和尚の禅風があがるごとに 雲水が群集し 見性寺は たちまち 一大叢林となった。
集まった雲水たちは 羅山を蘇山門下の第一とした。
こうして羅山は 蘇山和尚のもとで 修禅をつとめていたのでしたが 郷里の本師が 羅山が見性寺にいることを知り、しきりに帰郷するように何度も 求めていた。
羅山も本師の願いを 断り切れず とうとう帰郷をおもいたち 遠江に向かったが、途中 筑後の梅林寺の悦堂和尚の遷化にあい、 梅林寺の後住として あとを嗣いでくれるように 懇願されたが、嗣住という(雲水を育てる任)重責を 寄託された 羅山は 辞退もできず 梅林寺の住職となる。

安政六年三月 羅山は 詔勅により 妙心寺に住職する。(この頃は管長とは言わなかった。明治になり管長職ができたようだ。)
晋山式には 勅使も出席し 集まったものたちは 羅山に禅法発展の望みを託した。
妙心寺住職となり 羅山の徳華は ますます輝いていたが 梅林寺の衆僧と苦楽を共にすることは 一日たりともなく 一日たりとも 安逸に日を送ることは なかったという。
羅山の 人となりは 瑞厳にして、ひとり座禅を組むときにも 衆と共にあるが如く 厳然たる態度であった。その容貌は魁偉、眼光は近寄りがたいまでも鋭く光り輝いていた。
しかし、口から出る言葉には 春風のような ぬくもりがあり、その声を聞く 学徒は 深く心酔し 辞して去るにしのびなかったという。
慶応三年二月に 病に倒れた 羅山は 門人の感淚の中でついに遷化した。
世寿は 五十三歳(今の私と 同じ歳である)
筑後の有馬侯は深く 羅山に帰依し、羅山が病に倒れたことを知ると 侍医をつかわして懸念にその命を 救わんと つとめたいうことであった。

追記であるが
蘇山和尚 羅山和尚は 上記の通りだが この二人は漢詩にもかなりたけていたという。
安国寺に 藍山和尚がいた。。。。。。だれが言ったかは しらないが 漢詩の三山と うたわれていた。。。。藍山和尚も 漢詩が好きで どこかの六局屏風に 綿密に漢詩が書かれている。。。きっと 安国寺の 藍山和尚が 勝手に 言ってるだけだと 私は思うが、時代も違うし 漢詩が 得手だった ことは 疑いなきことのようだ。。。。失礼しました。

私も まねしたいが 生まれもった 器が 違う。。。。。。

2011年9月16日 (金)

一休・・・・ニセ坊主は木剣と同じこと

禅文化研究所の禅門逸話選より

一休が和泉国に赴いていたころのこと。その頃 一休は外出する時には 必ず 木剣を持って歩いていた。どうもおかしなことをすると、ある男が 一休に向かって言った。
「 いったい、剣は人を殺す野に使うものでござりましょうに、出家の身である和尚がなんでそんなものを持ち歩くのですか 」と、なじるように 尋ねたのだが 一休は いっこうに平気なもので
「 部屋に納めておくには、まことに真剣のように見えるけれど 室の外に出て、いったん抜いてみると ただの木片にすぎんのじゃ。こんなもの、どうして人が殺せるものか。 今時の馬鹿坊主も ちょうどこの 木剣と同じことじゃ。 見せかけで 人を救うことはなど できるものか。」 と 答えた。

私の 講評です。
衣着て 袈裟をつけて いる ニセ坊主が 幅をきかせている。。。。。。。カッコだけで 中身は坊主じゃないものが 多い気もする。お経を読めれば 坊主と言うことじゃないのだ。
衆生済度がもっとも 坊さんの 眼目である。
肝心なことを 忘れては困る。
 な~~~んて 言って 私が 一番の ニセ坊主かも しれない。。。。失礼しました。

2011年9月15日 (木)

一休・・釈迦もダルマもびょいひょい生む

禅文化研究所の禅門逸話選より

一休 ある時、木津川のほとりを歩いていた。折りふし 真夏のことであったが、ふと見ると ひとりの女人が素っ裸になって 川で水浴をしている。
これはこれはと 一休和尚 しばらくこれを眺めていたが、そのうちなにを思ったか、その女性の向かって 三度までも 礼拝をした。
そしてなにもなかったかのように涼しい顔をして立ち去っていった。
たまたま この風景を見ていた村人たちは 不思議なことに思い いろいろ詮索を始めた。
「 出家の身にありながら、婦人の裸に 三回も礼拝するとは 気ちがいでなければできないことだ 」と
「 いや、これにはなにか仔細があるに違いない。一休和尚を追いかけて 仔細を聞くのも一興だ 」と言って 一休を追いかけて その由を尋ねてみた。

しかし、一休は なにも答えずただ 一首歌をよんだ。
“ 女をば法のみ 蔵をいうぞげに 釈迦も達磨もひょいひょい生む ”

これを いやらしいなどと 思うがおかしいのだ。。。
 一休が 言いたいのは 天皇も総理大臣も 母なる体内から 産まれてきたのだ。だからこそ 礼拝したのである。。。。。
 女性とは ほんとに すばらしいのである。。。。だからこそ 男は女に夢中になるのだ。

まっ 私の 評論で申し訳ありません。。。。

2011年9月12日 (月)

一休・・・・・・衣が尊いか

禅文化研究所の禅門逸話選より

この話は 17回忌の法事の時に 檀家さんにしているが・・・・・・・・今回は 本の通りに書きましょう。。。。

都の大富豪で 大事な法事が営まれることになった。主人は、導師は どなたをお呼びしたら よかろうかと案じていたが、京で一番の大徳寺の一休和尚こそ当代の名僧だと聞いて、仏事の前日に急いで 人をつかわせて お願いに行かせたところ、一休は 心やすく 引き受けてくれだ。
ところで、一休はこの話を聞くと 何を思ったか どこからか汚らしい着物を見つけてきて 手足には すすをつけ 破れた笠をかぶり 乞食のような なりに 身を変えた。
あたかも藻屑の中から出て来たような乞食坊主の姿になると さっきの大富豪の家に出かけていった。
 その門前に立つと 『御供養をお願いします。。。お慈悲をお願いします。。。。』と物乞いを始めた。。。これを聞いた 主人は 腹を立てて
 『見苦しい奴じゃ、さっさと 追い返せ』と下男に命じて 棒でさんざんに 打って 追い出してしまった。。。。。

そして 翌日、一休は昨日とは うって変わって 金襴の七条袈裟を引っかけ いかにも殊勝そうに その富豪のいえに出かけたのでした。

主人は おおいに 喜んで 一休を邸に迎え入れようとしたが 一休は玄関から 中には入ろうとしません。。。。。玄関に座り込んでしまった。そして言う
 『愚僧は ここで結構でござる』 と、てこでも 動かない。  主人は困惑して
  『和尚様、如何なされましたか。こんなところは 下郎が座るところです、どうぞこちらへ』
と手をとって 奥へ連れて行こうとしたら 一休は、
『しからば わしのこの衣と袈裟にお布施を頂きたい。愚僧に布施をしていただく 仔細はござるまい』 と言って 歌を 一首 よんだ。

“ 黄檗の三十棒をあてられて 身に腫れたる 蝉の 抜け殻』

『 昨日の乞食も 今日の愚僧も同じ身であるに、昨日は棒をくらい 今日はけっこうな ご馳走を頂戴するとは ひとえにこの 袈裟・衣が 立派だからであろう 』

と 衣 袈裟を 脱ぎ捨てて 帰って行った。。。。

まっ 少し わかりやすいように 変えて 書いたのだが、法事の時は これに 尾ひれをつけて 話すから 30分は かかる。。。

さて 仏事ごとを するのに こんなことでは いけませんね。

法事をする前の 心得が なっていないから 一休は 試されたのだと思う。

一休と蜷川の道歌問答

禅文化研究所の禅門逸話選より

一休
  金銀は慈悲と情けと 義理と恥 身の一代に使うためなり

蜷川
  世の中は 貧者・有徳者・苦者・楽者  なんじゃかじゃとて 末はむしゃくしゃ

一休
  今日ほめて明日悪くいう人の口 泣くも笑うも嘘の世の中

蜷川
  世の中は乗り合い船の仮住まい よしあしともに名所旧跡

蜷川
  一休も破れ衣で出るときは 乞食坊主と人は いうらん

一休
  袈裟 衣 ありがたそうに見ゆれども これも俗家の他力本願

蜷川
  ころもより袈裟より俗の古じゅばん おのが伎倆で着るぞ尊き

一休
  振り袖も留め袖とこそかわれども はだかにすれば同じ姿よ

蜷川
  骨かくす皮にはだれも迷いけん 美人というも皮のわざなり

蜷川
  一代の守り本尊をたずぬるに われ人ともに 飯と汁なり

一休
  世の中は食うて かせいで 寝て起きて さてその後は死ぬるばかりぞ

蜷川
  浮き世をば なんの糸瓜(へちま)と思うなよ ぶらりとしては暮らされはせず

一休
  世の中は 糸瓜の皮のだん袋 そこが抜ければ穴へどんぶり

一休
  あら薬や虚空を家と住みなして 心にかかる 造作もなし

蜷川
  俗あかを 洗い落とせば さっぱりと 襦袢につけし 糊ぞ尊き

なんとも すごい やりとりですね。。。。。。。。
  ああ言えば こう  こう言えば ああと・・・・・・・・・・happy02

2011年9月11日 (日)

一休・・・・親鸞像に讃していわく と 馬じゃげな

禅文化研究所の禅門逸話選より

寛政二年十一月 本願寺にて 蓮如が 十日十夜にわたって 親鸞聖人の二百回忌の大法会を厳修し、一休も これに参詣していた。

その時一休は 和歌を一首よんで 呈上した。

  末世相応の 心を 襟巻きのあたたかそうな黒坊主
          こいつが法は 天下一なり

この後 一休は蓮如に親鸞の画像を懇願したところ、蓮如は 当時の 絵かきに 親鸞の ご真影写して 自分でこの画像に題をつくり 一休に おくった。

そして 一休は その画像に 題を作って 薪村の 酬恩庵に 蔵した。。。。。。

また こんな話もある

ある人が 馬の絵を持って来て 一休と蓮如に 賛を求めた。。。
 一休が まず題していわく

   馬じゃ げな

すると 次に 蓮如は、

  そうじゃ げな

と 賛したそうだ。。。。。。。。。。。。。。。。

似たような 二人で あったのでしょう。。。。。

一休は 当時 天下の 活佛として 宗派をとわず 尊仰されていたのでした。。。。

一休宗純・・・・・ご用心

禅文化研究所の禅門逸話選より

ある人が 一休のところにやってきて、なにか心得となる言葉をと 所望した。

一休は早速 筆をとると・・・・

「御用心」 と書いて与えた。すると 男はなにかものたりさなそうにして 他にもっとなにか書き加えては頂けないかと 言う。

すると 一休は 「御用心 御用心」 と書いた。

男は言う。。。和尚様、これでは あまりに芸がないではないですか。なにかもっと為になることを書いて下さいと。

と言うので 一休は 「御用心 御用心 御用心」と書き足した。

これをみて この男は 呆れ果てて・・・・・和尚様 御用心ばかりですが いったい これはなんなのかと・・・・・

一休は 「御用心は御用心だ」 といって 一句を読む。

“明日 有りと 思うこころの あだ桜 夜半の嵐の 吹かぬものかは”

人間はいつ何時に死ぬかもわからん、さればこその 御用心じゃ

と言われて 男も やっとその意味が わかった。

禅門逸話選 下

禅文化研究所が出した 本がある。。。。。

まっ こそこそと一人読んでも もったいないので ここに 一部を紹介しようと思う。。。。。

自分でもっと読みたい人は 書店で購入下さい。

上巻 下巻持っていたのに 誰かに貸してから かえってこないのだ。 誰に貸したのか 思い出せない。。。。。